日本財団在宅ホスピスプログラムについて

関係者の声

関係者の声:ホスピスケアからコミュニティケアへ〈1〉:在宅ホスピスプログラム・アドバイザー 山崎章郎さん

 東京都の郊外に位置する小平市の東端、小平市・武蔵野市・小金井市の三つが隣接する住宅街にケアタウン小平が開かれたのは2005年の夏のことです。

 3階建てL字型の低層の複合型施設。1階玄関を入って左手はケアタウン小平クリニック。その隣はNPO法人コミュニティケアリンク東京が運営するケアタウン小平訪問看護ステーションと居宅介護支援事務所が並び、右手にはデイサービスセンター、L字の角を曲がるとて子育て支援スペースや、ボランティアルーム、厨房などが配置されています。2、3階は一人暮らしの方を対象とした賃貸アパート「いつぷく荘」です。

 L字型の建物に仕切られた中庭は、広々とした芝生広場、敷地の半分くらいあるのではないでしょうか。背の高い木々が、隣の名門・小金井カントリー倶楽部と境を接しています。

 3分も歩けば玉川上水が流れ、住宅街を抜けると小金井公園と自然に恵まれた環境の中で、今年12年をむかえるケアタウン小平はしっとりと馴染んでいます。

 

 ケアタウン小平クリニック院長の山崎章郎先生は常に、日本のホスピスの流れの一歩先を歩いてこられました。

 1990年に上梓された『病院で死ぬということ』(主婦の友社、現・文春文庫)は、大病院信仰が今よりももっと厚かった当時の世の中に衝撃をあたえてベストセラーとなり、日本エッセイストクラブ賞を受賞、文庫本となった今も売れ続けています。

 『病院で死ぬということ』の中では、当時の終末期医療の貧しさとホスピス導入の緊急性を訴えておられましたが、先生の文筆活動はその後もつづいています。出版された年と書名を見ていくと先生の活動の一端が見えてくるように思えます。その後の主な著書、共著を抜粋すると、下記のようになります。

 

1995年 『僕のホスピス1200自分らしく生きるということ』(海竜社、現在・文春文庫)

2000年  『ホスピス宣言 ホスピスで生きるということ』米沢慧共著(春秋社)

2012年 『家で死ぬということ』(海竜社)

2014年 『市民ホスピスへの道 〈いのち〉の受けとめ手になること』二ノ坂保喜、米沢慧共著(春秋社)

 

 そこには、病院からホスピス緩和ケア病棟に、そして今、在宅ホスピス、さらにその先へ、ホスピスに対する揺るぎない視線と信頼があります。

 ケアタウン小平クリニックで山崎章郎先生のお話をうかがいました。

山崎:ケアタウン小平の構想は、2001年に1年間休職してあちこち見学し、「ケアタウンたかのす」を見たときに閃いた発想からです。

それまで10年間、桜町病院聖ヨハネホスピスで仕事してきたなかで、ホスピスケアを地域に広げていきたいという気持ちはあったんだけど、どう具体的に展開していくか見えてこなかったんですね。で、一年間の長期休暇をとって一旦離れてみた。その間に次の構想が見えてきたんです。

医療の世界でホスピスを進めていたけれど、次の展開を考えたときに、やっぱり福祉を視野に入れなくてはいけないなと考えた。それで、大熊由紀子さん(元朝日新聞論説委員、国際医療福祉大学大学院教授)に相談して、「スウェーデンの福祉を見てきたい」と言ったら、「今は福祉はデンマークです。デンマークが世界で一番です」と言われて、「それをモデルにした介護と福祉の取り組みが秋田県鷹栖町(現・秋田市)で行われています。そこにまず行ってみたらどうか」と勧められたんですね。

そこで「ケアタウンたかのす」で3日間、「福祉塾」というワークショップに参加したんですよ。

 

「ケアタウンたかのす」は、秋田市鷹栖町にある複合型施設です。1999年、当時の岩川徹町長主導の元、在宅複合型施設として開設。東北の小さな町が全国有数の福祉水準をもつ「福祉の町」として名乗りを上げ、その一環としてうまれた「ケアタウンたかのす」という斬新な福祉モデルは全国の注目を浴びていました。

 

山崎:その時、「ケアタウンたかのす」と同じ敷地内にあったアパートが僕の注意をひいたんですよ。それまで街中で暮らしていた人たちが、ケアタウンのなかで同じようなアパート形式で自分の空間を持っている。ドアの外に一歩出ると、共同の食堂があって、広々とした廊下はギャラリーになっていて、でも、そこは普通のアパートと同じだから、今言われるサ高住(サービス付き高齢者住宅)のような介護サービスはついていない。介護サービスが必要になれば、外から入ってくる。「これ、いいな」と思ったんですよ。

 

Q:それが「いつぷく荘」になったんでしょうか。

山崎:じつは、それまでも聖ヨハネホスピスで患者さんを見ながらも、合間を見て在宅に行っていたんですよ。でも、家が結構遠くて、往診が大変だった。というのは、中央線は今、高架になっているけど、昔は踏切を超えていかなければならなかった。中には、開かずの踏切みたいなのがあったり、渋滞に巻き込まれたりするわけですよ。そうすると、具合が悪いって言われても、そこに行くまでにすごい時間がかかったりする。

そのときに思ったのは、患者さんたち、引っ越してきてくれないかな、近くにね。ホスピスに来なくていいから、近くのアパートに来てくれないかな、と(笑)。

それに、これからの社会で、高齢者で障害を持っていたりすると、なかなかアパートを貸してもらえなかったりする。そういう人たちが住みやすいアパートがあったらいいな、と。

「いつぷく荘」はケア付きではない。通常の賃貸アパートで、介護も食事もこの建物に備え付けられているわけではない。食事は配食サービスをとることができるし、介護サービスが必要であれば、外付け(外部の介護サービスに依頼する)だから、在宅と全く同じ。「いつぷく荘」の住人は自立できる範囲で生活していて、足りない分を訪問看護、訪問介護を入れながら生活するという発想ですね。

Q:先生の中で、福祉との出会いは大きなものでしたか。

山崎:ウン。福祉の限界がわかったんですよ。「ケアタウンたかのす」で見えたのは、福祉のすばらしさというよりも、限界だった。デンマーク型の福祉を取り入れて、当時、介護老人保健施設だったと思うけど、すでにユニットケアをしていて、個室があった。その当時の老健や特養は、一般的には何人も同じ部屋にいるのが普通だったからね。

そこで僕が「素晴らしいですね。もしもこの中で末期のがんになられたら、どうされますか」と訊くと、「残念だけど、そのときは病院にいってもらいます」と言われた。で、「どういう病院ですか」と訊くと、「普通の病院だ」って言われたの。

「ああ、そうか。デンマーク型の福祉をモデルにしていても、最後は病院に行く、手放すんだ」と思ったわけですよ。

そこでわかったんですよ。だったら、ここと我々がドッキングすればいいんじゃないかって。ここに我々が参加すれば、ここに住んでいる人たちは、最期の時に一般の病院に移らなくていいわけですよ。

福祉がどんなにいい介護サービスを提供したとしても、尊厳をもって自立して生きてきた人たちが病気になったとき、治る病気なら病院に行けばいいんだけど、末期のがんだとか治癒が叶わない病気になったとき、最期は病院に行かなければならないとしたら、それは切ないでしょう。

その切なさを、我々が取り組んできた在宅ホスピスで補うことができるんですよ。うまく助け合うことができる。ケアタウンに住む人は、そこを終の住処にすることができる。住んでいる場所に我々が出向けばいいわけですよ。それが在宅ホスピスの取り組みになるでしょう。

僕の構想は、ホスピスケアを地域で展開していくためにチームを一箇所にまとめたい。その拠点は、密度が濃いチームとして、いろんな職種が同じフロアにいて、いつでも情報共有ができるようにする。今ここが、そうですけどね。そして、そのチームが地域に出向いて行く。

僕は休職中にそんな構想を得て、その後、アジアのホスピスを見学したり、実際にデンマークに行って福祉の実態も見ることができた。で、帰ってきて「ホスピスケアからコミュニティケアへ」と題した論文を発表したんですよ。

 

2003年、朝日新聞社の「論座」に提言として発表された「ホスピスケアからコミュニティケアへ 調和のとれた福祉と医療が作りだす安心高齢社会の都市型ケアタウンモデル事業構想」は、施設ホスピスが提供するホスピスケアの限界と在宅ホスピスの整備不足を論じ、「より普遍化されたホスピスケア」の必要を訴えるもので、「ケアタウンたかのす」の取り組みを紹介し、高齢社会に向けた医療の導入による新たな都市型ケアタウン構想を提言したものです。

その中で、山崎先生は狭義に受け取られがちな「ホスピスケア」という言葉を、地域社会が支えるホスピスケアを意味する「コミュニティケア」に置き換えています。

今でこそ、「コミュニティケア」は医療・介護・福祉に限らず社会で多用されていますが、当時、「コミュニティ」という視点は、大変新鮮なものだったのではないでしょうか。そのケアタウン構想の中には、高齢者向けサービスばかりではなく、知的ハンディをもつ人のための就業及び生活施設、保育園、幼稚園が含まれています。

Q:その構想を具現化したのがケアタウン小平なんですね。

山崎:論文をこの建物のオーナーの長谷方人さん、聖ヨハネホスピスでホスピスコーディネーターをしていた方だけど、彼に見せたんですよ。そうしたら、「いいですね、これやりましょう」って、「僕に建物を任せてください」と言って、コーディネーターを辞めて、「暁記念交流基金」を立ち上げられたんですよ。それから、土地探しをしてここを見つけたのね。

 

(取材日:2016年11月2日)

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