日本財団

在宅ホスピスHOSPICE CARE AT HOME

にじいろのいえ vol.4

辰栄さんのこと

にじいろのいえの3番目の住人の小野辰栄さんのご家族が来てくださって、お話をうかがうことができました。辰栄さんは10年前にALSを発症し、2年前に亡くなっておられます。

 当時、岡部医院でケアマネジャーをしていた今野さんにとって、辰栄さんが初めてのALSの患者さんです。口に出して言えないからこそ、一所懸命考えなきゃいけない。何が“いずい”か考えなければいけないということを教えてくれたのは辰栄さん、座位が保てたころからのおつきあいで、たくさんのことを教えてもらったと言います。家族の思いはとても強いけれど、何かがあったときは、全部任せてもらえる信頼関係ができていました。また、辰栄さんを通して、医師をはじめALSのケアのネットワークが広がり、それが今に役立っています。

 お話しをうかがったのはご長男の小野秀樹さんと甥御さんの伊藤颯さんです。

Q:お母様が発症されたのは10年前と聞きましたが、在宅で介護されたのですか?

小野:はじめは在宅で。そのとき偶然、岡部医院に受診してそこで今野さんと出会ってですねえ。それからとことん面倒見てもらいましたよ。

Q:進行は速かった?

小野:速かったですねえ。とくに、呼吸器に来るのが速かった。

Q:人工呼吸器を着けられたんですよね?

小野:父は、母が着けないと言っていたから着けんと言う。なんという薄情なやつかって喧嘩になったんですよ。結果は着けたんですがね。あとから思うと、親父は自分のほうが早く逝くと思っておったんでしょうね。自分はそういうことは知らないから。でも、着けてからは、父が本当によく面倒をみていましたね。

Q:震災のときはどうされましたか? 病院におられた?

小野:あのときは病院が被曝圏内に入っていて、みんな避難しなければならない。母は新潟の柏崎病院にヘリコプターで運ばれたんですよ。俺たちはあとから車で行きたくても、燃料がなくて行けない。困っていたら、「ゆりちゃんのためなら」ってまわりの人がみんな燃料を分けてくれたんですよ。みんな暖かでしたね。(ゆりちゃんは、お母さんが元気なころに看板をあげておられたお店の名前)

ところが、新潟で入院しているときは、こちらもそう簡単に行けないし、話しかける人が少なくなったんですかね。いくたびに表情がどんどん失われていく。おかしいな、このままいったらダメになるんじゃないかなと思って、今井先生に相談して、移動できる救急車に乗せて、解除された宮城病院に連れ帰ったのがその年の冬でしたかね。

Q:帰ってきてほっとされたでしょうね。

小野:新潟から帰ってきて、すぐに目を開けられない、口が聞けない、意思疎通ができない状態になってしまい……。そんなときに、こんどは親父ががんになってですね。

Q:お母さんより早く逝かれたとか?

小野:がんが見つかってちょうど3カ月でした。このときも今野さんに相談にのってもらって、最後の1カ月は在宅でみました。父を看取る間、母親を宮城病院に預けていたんだけど、父が亡くなると「お父さんが落ち着いたから出てくれ」と言われて。

でもうちはみんな仕事をしているし、この子たちも学校があるし、どうしようと思って。姉と嫁と私と話し合って、今野さんに相談したんです。岡部医院を辞めておられたので、迷惑だろうと思ったけど、どうしたらいいかわからなかったもので。

Q:そのときは、にじいろのいえはあったんですか?

小野:そう、ここができてすぐくらいっだったでしょうかね。そうしたら、「ちょっと考えさせて」と言われて。でも、翌日すぐに電話があって、「私、決めましたから。連れてきて」といわれて。

Q:ホームホスピスってご存じでしたか?

小野:そのときは何にも。今野さんから「みんな不慣れだから、家族も協力して」といわれて、呼吸器の扱い方とかいざという時の発電機の使い方など習いました。

人工呼吸器をつけているから十分注意してもらっているけれど、万が一、何かあったときの覚悟はしました。ここはみんな家族と同じなんです。吸引でもなんでも、思いが一緒であれば誰がやっても一緒なんです。だから、「万が一何かあってなくなっても、その時が寿命だからな」って家族には言っていました。

当時を振り返りながら、「私たちは、ここがなかったらきつかっただろうと思う」とおっしゃる叔父の小野さんの横でうなずく伊藤颯さん。時折、事実関係をフォローしながら、終始にこにこと笑顔で叔父さんの話しを聞いておられた颯さんは、先日希望の大学に入学が決まったばかりです。スタッフが通りかかるたびに「あれっ颯くん、久しぶり」と話しかけて皆さん、うれしそうです。辰栄さんがにじいろのいえに来られて亡くなられるまでの3年間、おばあちゃんのお見舞いによく来られていたようです。

亡くなった辰栄さんは、看護師の資格をとる勉強を始めた颯さんのお母さんの代わりにお兄さんの陸人さんと幼い颯さんの面倒をみておられたそうです。とても陽気でおしゃべり好きの女性だったと言います。二人の頑張りをなんでも喜んでくれたという辰栄さん。

Q:いろんなことを報告したそうですが、おばあちゃんはわかっていらしたのでしょうか?

颯:はい、目はつぶっていても声は聞こえていて、喜ぶと興奮するのかこめかみの青筋が浮いてみえ、ああ、わかってくれているって、こちらにもわかるんですよ。

Q:最後はそばについておられたんですか?

颯:はい、家族みんなで。兄は秋田大学の医学生ですけど、2時間かけて夜遅く帰ってきて「ありがとう」って言えました。医大生だからって今野さんにいろいろ教えてもらって、聴診器をあてたりしていました。

勉強にスポーツに頑張る二人のお孫さんは、辰栄さんにとってご自慢のお孫さんだったでしょう。

取材でうかがう前に、ホームホスピスの全国大会でお兄さんの陸人さんのお話を聞く機会がありました。その中で、

中学の時に書いた作文を引用して、「『誰かが笑う、庭の花が咲く、家に帰れば誰かが“おかえり”といってくれる』。それを叶えてくれるのがホームホスピスではないでしょうか。ホームホスピスでは、暮らしと死が自然に馴染んでいるのではないでしょうか」。

「家で死ぬということは、地域の中で死ぬこと、隔離された死を取り戻すことではないでしょうか」と聴衆に問いかけておられました。

そして、辰栄さんの死から、「医療者や住人、スタッフ、地域の住民、たくさんの人に囲まれて生き、その相互作用の中で死んでいきました。それが、私たちがホームホスピスを必要とする理由ではないかと思います」と語っておられました。